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 ホーム(ニュース)コンサート調律師 MPA のひとりごと第20回「哀愁のヨーロッパ」*リンツ編*

第20回「哀愁のヨーロッパ」*リンツ編*  コンサート調律師(MPA) 山脇 健次

私がオーストリアのリンツに滞在したのは、1994年の10月から翌年3月までの6ヶ月でした。リンツはオーストリアに九ある州のうちの、上部オーストリア州の州都でドナウ川沿いにある美しい街です。モーツァルトの交響曲リンツや、ベートーヴェンが交響曲8番を作曲した街として知られ、毎年秋には国際ブルックナー・フェスティバルが開催されています。さてさて、私はリンツで1番のピアノ店・Meata・にお世話になることと相成りました。

Klavier Haus Meata(クラヴィアハウス・メアタ)・・・
主人は私と同じ年齢のメアタさん。家族構成も私と同じで調律師。従業員4名も全員調律師。その中で数字に強い者が経理をし、会話が上手な者が店頭での営業を兼ねます。
ドイツやオーストリアでは、こんなピアノ屋さんは普通に存在します。
10月上旬、カワイドイツの在るクレフェルド市を出発し、愛車の25万円で購入したアウディ1800GTで紅葉のアウトバーンを駆ること800km、およそ6時間でリンツに到着した私は、気のいいメアタの仲間たちとの一生忘れることのない思いで深い6ヶ月を
その地で過ごすことになりました。

大家さんはハードロッカー・・・
住まいは店から車でドナウ川を渡り、坂の途中のトーマス君のマンションの1室に間借りです。彼はオーストリアで売り出し中のロックバンド(デ・トマソ)のリードギターです。
いわゆるロッカーとクラシックを仕事にしている私との共同生活です。彼の所に集まるロッカー達は好きな音楽こそ違え、実に純粋に音楽を愛している連中で私に沢山の発見を与えてくれました。そして彼らは私の知識を必要とし、私はアフターワークの時間を実に有効に過ごすことが出来たのです。もちろんドイツ語がここで上達したのは必然的でした。

 

フリードリッヒ・グルダは王様です・・・
ある日、店にグルダのコンサートの調律依頼が入りました。場所はこの地区でもっとも有名なコンサートホール・ブルックナーハウス、4台のフルコンサートピアノが有ります。
そこでコンサート前日に店No.1の調律師のクリフトフと調律に出かけました。私が担当するのは新しいスタィンウェイ(以下スタン)と古いベーゼンドルファー(以下ベーゼン)、クリフトフは古いスタンと新しいベーゼンです。二人同所で調律は出来ないため、クリフトフはステージで調律を始め、私はロビーにピアノを移動させての調律です。が、その日は近隣の小学校のホール見学会で大人数がロビーで騒ぎ立てています。ピアノの音など全然聞こえず調律に大変長い時間が掛かってしまいました。調律完了後ステージに4台のピアノを設置し、グルダによるピアノの選定が始まりました。以下、グルダのピアノを弾いた順番と時間です。
1. 新ベーゼン・・・1分
2. 古ベーゼン・・・5分
3. 古スタン・・・2分
4. 新スタン・・・5分
5. 再度・古ベーゼン・・・12分   結果古いベーゼンに決定。
結局私が担当したピアノが選ばれ、翌日のコンサート調律は私の担当になりました。
さて、翌日朝からステージで選定されたピアノの本番調整をしているとグルダ大先生が貫禄たっぷりに現れました。オーストリアピアノ界の王様の登場に、ホール関係者全員が緊張しています。ピアノ調整に緊張していた私は、対ピアニストには全然緊張せず「何故あなたはこのピアノを選んだのですか?」と気になっていた質問しました。するとグルダは「昨日お前は長い時間をかけてこのピアノを調律していただろう。私は後ろから見ていたんだぞ」私は彼が見ていたとは全く知りませんでした。たまたま周りが騒々しくて調律に時間が掛かったのが、誤解とはいえグルダ大先生の印象を良くしたのでした。
そしてピアノを弾き始めた大先生は、今日はモーツァルトだからペダルはこうしてくれ、
この辺の音はこうしてくれと指示をしましたが、舞台の責任者がピアノ位置、照明を指示を仰ぐと「自分で考えろ!」と大声で一括。王様の一声に私以外の全員が直立不動になりました。コンサートが始まり、ステージ上のグルダがモーツァルトを弾き始めました。
ピアノが気に入ったのか、最前列で聞いていた私にニコッと目配せをし、さらに後半のステージでは踊りだす始末です。そうして大観衆のアンコールの声が鳴り止まないうちにコンサートは終了。私は大仕事の緊張が解けた脱力感が有りましたが、グルダ大先生よりの伝言を伝え聞いたときは最高の満足感に満たされました。その言葉とは、2週間後同場所での大先生のコンサートに「あの日本人に調律を頼め! 今度はベートーヴェンだぞ」。
その5年後大先生が亡くなった事を日本で知りました。私に最も印象を残してくれたピアニストでした。きっと天国でも生前同様元気一杯活躍していることと思います。また店での私の最大のライバルであったクリフトフは、その後簿記学校に通いウィーンのスタィンウェイ店の店長になりました。ウィーンで再開した私達はその時の話に花が咲き、彼は「このビールに誓い、今度は負けないぞ!」と語り私たちは夜更けまで交友を暖めました。

リンツ滞在で日本語を忘れた・・・
それまで長期滞在した街には誰となく身近に日本人がいて、日本語を話す機会が程ほどに有ったのですが、ここリンツでは日本人に出会うチャンスが偶然にも全く有りませんでした。ただ、ある日地元のTV局で調律をしていると背後から一言「いつ終わりますか?」
それに対し私は「もうちょっと!」。 又リンツを去ることが決まり、近くのレストランで私のお別れパーティの最中に、近くに座っていた東洋人らしきご婦人が退席する際私に「ごゆっくり」と会釈し、私は思わず「あ、どうも」。つまり「もうちょっと」と「あ、どうも」の二言だけが、私がリンツに滞在中の6ヶ月で口から出た日本語でした。確かにドイツ語(訛った)は格段に上達しましたが、その後日本に帰ってからしばらくは日本語の言い回しがスムーズに出てこなかったりして、元に戻るのにはしばらく時間がかかりました。もっともその頃にはせっかく覚えたドイツ語もかなり忘れてしまっていましたが・・・

ドイツを中心にヨーロッパ各都市を巡った26ヶ月、そこで体験したすばらしい出来事を皆さんに届けられたらいいなと思っています。それでは又!
Auf Wiedersehen (アオフ ヴィーダーゼーエン)・・・さようなら。

 

山脇 健次 (やまわき●けんじ)

1977年 カワイピアノ入社
1978年 サービスセンター札幌勤務
1993年 カワイヨーロッパ研修
1995年 ピアノ研究所勤務
1998年 北海道支社勤務

国際コンクール暦(主なもの)
1994年 ロンドン国際コンクール
1994年 ダブリン国際コンクール
1994年 ジョージ エネスコ国際コンクール
1995年 サンタンデール国際コンクール
1997年 ヴィエンナ・ダ・モッタ国際コンクール

趣味:許せる範囲で世界遺産巡り
特技:動物と仲良くできること

 

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