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レオニード・クロイツァー教授 没後50周年に際して

クロイツァー記念会について -----

 日本の楽壇に於て、1937年以来、多大な貢献をされたピアニスト レオニード・クロイツァー教授(Leonid Kreutzer)が1953年10月30日に急逝されたの報に接して、日本中の音楽愛好家の間に衝撃が走った時から、今年で丁度50年となる。クロイツァー教授の偉業を称えて永久に記念すべく、多くの方々の熱心な支援によって設立されたクロイツァー記念会は、その事業の主なものとして、クロイツァー賞なるものを設け、1971年から毎年、クロイツァー教授ゆかりの三校の、大学院ピアノ専攻修了生の最優秀者に、各校を通じて賞金を授与している。
 その年度の受賞者は毎年7月に「クロイツァー賞受賞者による演奏会」に出演し、聴衆の熱気に包まれて、楽界の指針となる演奏を披露している。
 今回の「クロイツァー教授没後50周年記念演奏会」には、受賞後ますます活躍中の、各校から2名、計6名のピアニストに出演して頂くことになった。現在日本楽壇の中枢にある方達の揃い踏みは、他では見られない企画かと思われる。曲はクロイツァー教授のお得意のレパートリーの中から、三校の出演者が選択された。且つてクロイツァー教授の名演に接した方々及び最近認識を新たにされた方々に、深く心に留めて頂く事のできるコンサートになると思える。
 50年も過ぎると、クロイツァー教授の実演をお聴きになった方は数少なくなり、記念会設立時の文化人並びに門下生の中、70名はすでに物故会員となられた。旧門下生で実際にクロイツァー先生の薫陶を受けた方の中で、現在も音楽に携わっておられる方は10人程になってしまった状況の中で、今こそ、可能な限り、故クロイツァー教授の業績の中から、何か確実に後世に伝える事のできる物を残さなくてはならない、というのが記念会幹部の考えとなった。
 記念会の会長は、初代高折宮次氏に次いで、井口秋子氏・野呂愛子氏・伊達純氏と受継がれ、事業としては1984年に「クロイツァー生誕100年記念演奏会」、1996年に「クロイツァー音楽の遺産」として特別公開講座及び遺品展を開催、それと同時にCDとして「Leonid Kreutzers Verm劃htnis(精神的遺産)T集」が発売された。
 クロイツァー教授逝去から3年後の1956年7月1日に東京芸術大学奏楽堂前の広場にクロイツァー教授のレリーフが建てられ、文部大臣、東京芸術大学学長上野直昭氏、武蔵野音楽大学学長福井直秋氏、国立音楽大学学長有馬大五郎氏を始め芸大関係者により除幕式が行われた。レリーフは当時の芸大美術学部教授の吉田五十八氏設計、レリーフ山本豊市氏により、ピアノの鍵盤をイメージした白黒の御影石を土台にクロイツァー教授のお顔の部分が彫刻され、それにクロイツァー教授の言葉「Musik muss seelisch erlebt werden Musik verstehen genugt nicht」が刻まれた。
1987年に芸大の行事中のミスにより土台石の一方が破損したので、その後記念会からの依頼により2000年に芸大学長澄川喜一氏のご理解のもとに美事に復元され、傍らに原語及び訳文「音楽は魂で感じとられるもの 音楽を理解するだけでは充分でない」の碑文も建てられた(P.3)。破損した御影石から作られた数十個の文鎮は、毎年受賞者に記念品として一個ずつ差上げることになっている。
 本年2003年に、この没後50周年記念を迎えるに当り、前述の「クロイツァー音楽の遺産」のCD第二集が発売されることになった。
 これについてはCDの中のライナーノートに、編集責任者のクリストファ・N・野澤氏が詳しく書かれたので御覧頂ければ幸甚と思う。
 ここで、クロイツァー教授の略歴の中の、関連ある事柄につき少々述べさせて頂く。
(このあと教授の敬称を略す。)

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レオニード・クロイツァー略歴

1884年(0才)

3月13日サンクト・ペテルブルク(レニングラード)に生まれる。

1905年(21才)

第1次ロシア革命のため祖国を離れ翌1907年迄ライプツィッヒに滞在、同地でアルトゥール・ニキシュに指揮を学ぶと共にピアニストとして活動した。

1906年(22才)

第1次ロシア革命のため祖国を離れ翌1907年迄ライプツィッヒに滞在、同地でアルトゥール・ニキシュに指揮を学ぶと共にピアニストとして活動した。

1908年(24才)

ベルリンに移りピアニスト及び指揮者、更には著述家としての公式活動を開始した。

1911年(27才)

モスクワ国立歌劇場でラフマニノフ:ピアノ協奏曲No.2をクロイツァーの指揮、作曲者のピアノで演奏した(グリンカ賞記念演奏会と指揮、ピアノが交代)。

1913年(29才)

12月21日ブラガロードヌイ・ザグラーニエ大ホールでラフマニノフ:ピアノ協奏曲No.2を演奏(1911年の組み合わせと同じ)。

1915年(31才)

ブライトコプフ社より「正しいピアノ・ペダル」出版。

1921年(37才)

フルトヴェングラーの勧めでベルリン音楽大学(ホッホシューレ)のピアノ科教授に就任。この頃ウルシュタイン社より「ショパン全集」出版。

1922年(38才)

マンハイム国立歌劇場で同劇場指揮者だったフルトヴェングラー指揮により、自作の交響的パントマイム「神と舞姫」を初演、注目を集める。

1923年(39才)

ヘッセ社より「ピアノ技法の本質」出版。

1924年(40才)

「神と舞姫」を作曲者自身の指揮によりベルリン市立歌劇場で再演。

1926年(42才)

翌年にかけて第1回アメリカ楽旅を行ない成功を納める。

1927年(43才)

ドイツ国籍を得る。翌28年にかけて第2回アメリカ楽旅。

1931年(47才)

4月に初来日、約2ヶ月に渡って演奏とレッスンを行なう。その功績により、銀杯を下賜され宮内省にて拝受した。

1933年(49才)

4月、ナチスによって制定された「職業的官史制度再建法」により公職追放を受けベルリン音楽大学主任教授を辞任。

1934年(50才)

3月より4月にかけて2度目の来日、翌35年にかけて第3回アメリカ楽旅。

1935年(51才)

近衛秀麿氏達の忠告により帰独せず3度目の来日。

1938年(54才)

東京音楽学校(現・東京芸術大学)講師に就任。

1942年(58才)

ナチス・ドイツの欠席裁判によって国籍を剥奪され、無国籍となる。この頃より演奏活動に制限が加えられ始める。

1944年(60才)

秋、東京音楽学校を公職追放となり、演奏活動も停止。

1945年(61才)

5月17日、ナチス・ドイツの降伏と共に8月15日の終戦迄軟禁される。
終戦と同時に自由を得、9月より演奏活動を開始。

1946年(62才)

9月東京音楽学校に復職。

1948年(64才)

2月大化書房より「装飾音」(モーツァルトよりシューマンに至る)出版。
芸大兼任のまま国立音楽大学技術最高指導者に就任。

1950年(66才)

9月大化書房より「或る音楽家の美学的告白」を出版。
12月9日に老友アレクサンダー・モギレフスキーのために演奏会を開く。

1951年(67才)

5月に滞日20年記念演奏会等を開く。大阪ABC放送で半年に亘り「ピアノ・アカデミー」を放送。(教授の原稿に基づく解説は朝比奈隆氏)

1952年(68才)

2月4日、東京芸術大学ピアノ科講師織本豊子女史と結婚、五反田の新居に移る。10月25日大阪女学院に於ける大阪労音特別演奏会中、右手に異常を感じて演奏を中止した。

1953年(69才)

1月に全快、6月9日、全快記念講演会を日比谷公会堂で開く。
10月28日、青山学院講堂で演奏中に気分が悪くなり前半で演奏を中止した。
10月30日、午後6時30分狭心症により死去。
10月31日、納棺前に東京芸術大学、山本豊市教授によってデス・マスクを作成。
11月20日、日本青年館に於いて告別音楽葬。

クロイツァー教授の年譜 -----

 レオニード・クロイツァー1884年3月13日サンクト・ペテルブルク(レニングラード)生れ。ドイツ人の父は法律家。極く堅実な家庭に育ち、幼時は音楽家を目差すのではなく、一般のギムナジウム(Gymnasium文科高等学校)でラテン語・ギリシャ語を学んだ後に、帝室音楽学校へ進学。その頃から本格的に音楽の道へ進む。
 クロイツァーの言に依れば、幼年からの指の訓練に立ち後れた為に苦労があり、それにより、より多く音楽全体の思想や楽曲の構造について理論的に考えるようになり、ピアノ奏法についても人間の身体の構造と結びつけて合理的に研究し、最も心の奥深いものと音楽を自然に結びつけることを研究した、とのことであった。
 クロイツァーはピアノをアンネッテ・エシュポワ夫人(Annette Essipova)(1851−1914)に師事した。その夫でカール・チェルニーの弟子でもあったテオドール・レシェティツキー(Theodor Leschetizky)(1830−1915)は1852年から1878年の間はペテルブルクに1880年頃はウイーンに在住。彼は、音楽不在のメカニックは意味がないとして、音楽の魂を持つ技術として自然な重力奏法を提唱し、パデレフスキーやシュナーベルを育て、教育者として有名であった。
 クロイツァーは理論・作曲法をグラズノフに学んだ。(当時のロシアの楽壇はグラズノフを始めラフマニノフ、スクリャービン、リムスキー=コルサコフ等が活躍していた。)ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番作品18(1901年)に対してグリンカ賞が贈られて受賞記念演奏会が行われた時に、ラフマニノフの指揮でクロイツァーが独奏部を演奏したのが1905年、21歳の時。(1904年には日露戦争も開始され、1913年に第一次世界大戦勃発、1917年にニコライ2世の帝政ロマノフ王朝が滅亡する前触れとして、1905年から第一次ロシア革命が起こる)クロイツァーは祖国を離れ1907年までドイツのライプツィッヒに移住し、そこでアルトゥール・ニキシュに指揮を学んだ。演奏活動も続け1908年からベルリンで活躍。1911年・1913年には前記ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番をラフマニノフのピアノ、クロイツァーの指揮で行った。1915年「正しいピアノのペダル奏法」を出版。1921年に37歳でフルトヴェングラーの勧めでベルリン音大(Hochschule)の教授に就任。(アルトゥール・シュナーベル、エドゥイン・フィッシャー、エゴン・ペトリ等も同時期。)1922年マンハイム国立歌劇場でクロイツァー作曲の交響的無言劇「神とパヤデレ」(ゲーテの詩インドの舞姫)がフルトヴェングラーの指揮により初演された。著述は1923年にヘッセ社から「ピアノ技法の本質」が、ウルシュタイン社(Ullstein)からショパン全集が出版された。ウルシュタイン社では当時、バッハ全集をエドゥイン・フィッシャーに、ベートーヴェン全集をアルトゥール・シュナーベルに依頼している。クロイツァーのショパンは115号から192号までであり、ショパンと同じスラヴ人として望郷の念を持つクロイツァーの深く心に訴えかける演奏はショパニストとして確固たる地位を得ていた事がわかる。

来日当初より永住に至るまで -----

 1926年アメリカ演奏旅行、1927年ドイツ国籍を得、1928年第二回アメリカ旅行、1931年に演奏旅行の途上に日本に立ち寄られた時には、既に笈田光吉氏宅でポツダム宮殿でのと同じ形で、公開講座を行っている。笈田氏は1923年からベルリンでクロイツァーに師事した方。又1922年からは東京音楽学校からの文部省海外留学生として高折宮次氏がホッホシューレで1925年まで学ばれ、同時期に近衛秀麿氏もお知り合いになられた。1933年、ドイツの国状に旋風が起り、ホッホシューレの教授は全員解雇され、1935年再度アメリカ旅行の帰路に日本に滞在された折に、近衛氏はドイツの状況は穏やかではないから、このまま日本に留まる事を勧められた。高折教授の進言もあり東京音楽学校校長の乗杉嘉寿氏も了承されクロイツァーは1938年から講師に迎えられた。ベルリン時代に、1931年から師事した井口秋子、伊藤義雄、黒川いさ子、大月投網子の諸氏も1934年に東京駅で師を迎えた折の写真が残っている。クロイツァーが東京音楽学校教授に就任された後は高折宮次氏が、達者なドイツ語で常に公私に渡りお世話をされた。
 1929年に東京音楽学校は創立50周年を迎えた。その間、ピアノ教師としては、マキシム・シャピロ、パウル・ショルツ、ケーベル、ワインガルテン、に次いでクロイツァーと同時期にレオ・シロタが居られた。ピアノ科出身者として大正末期に久野久子氏があるが、ベルリンでバルトの元で学んだ小倉末子氏や高折宮次氏の頃に、漸くほぼ現在の水準に達したものと思える。クロイツァーはその黎明期の日本に真に西洋音楽の伝統を伝えて、それを単なる模倣でなく、少しでも多くの個性あるピアニストを育てたいと願われたものである。
 1942年にはナチスドイツの追放により無国籍になり、日本への永住を決意され、活発に演奏活動を開始された。その中にはヴァイオリンのモギレフスキーとチェロのデュクソンとのピアノトリオ等もある。ベルリン時代に世界的に有名であった、チェロのピアティゴルスキー(Gregor Piatigorski)やヴァイオリンのヴォルフスタール(Joseph Wolfsthal)とトリオを組まれた時代を思い起こされたであろう。


世界的チェリスト・ピアティゴルスキーらとトリオ(ベルリン時代)

 1944年・1945年に遂に日本は第二次世界大戦に巻き込まれ、日本でも芸術家の方々が公職追放の上、軟禁となってしまった。戦後再び学校に復職され個人レッスンも再開されたがクロイツァーは戦時中の厭な思いについては殆ど何も話されなかった。併し元門下生の杉山千賀子さんが思い出の文集の中で語って居られるように、彼女の弟さんが当時の学生のスタイルであった黒い大きなマントを着て姉上を迎えに玄関に現れた時に、クロイツァーは一瞬、驚かれて室の奥まで急に跳びこまれたという。ゲシュタポを思い出されたかと思うと胸が痛む。又、後の先生のお話では軟禁中、学校の机の上に寝かされて背中が痛かった事や、音楽の教室で他の外人の方の頼みで月光の曲を弾きU楽章が終り、これから嵐のV楽章に入ろうとしていた時、その学校の校長が飛び込んで来て演奏をとめられて本当に嵐になったとか。友人の作曲家プリングスハイムやドウクソンとトランプをなさった話もある。ユーモアのお好きな方で、軟禁はナンキン(虫)の時代でもあったとのジョークも話された。

戦後20年間の御活躍 -----

 戦後は茅ヶ崎の海の見えるお住まいから、東京五反田に立派な新居を作られ、最愛の豊子夫人とお住まいになり、家庭的にやっと恵まれた時期を短くはあるが、お過しになれたことがせめてもの事と思える。
 1946年復起から御逝去の1953年までの間は夜を日に継ぐ活躍であった。1951年の滞日20年を記念するリサイタルは日比谷公会堂等を満員にして四夜行われた。それらの記事の一部を紹介させて頂く。「ウィーン楽派のピアノ技法を今日まで伝える楽壇の至宝の指先から流れるベートーヴェン円熟期の作品『熱情』等に於ける教授の演奏ぶりは息づまる程の緊張を見せ、招待客の小宮豊隆、石坂洋次郎夫妻、由起しげ子、堀内敬三氏らをはじめ場内をうずめた聴衆を完全に魅了し去った。氏のラフマニノフピアノ協奏曲第二番はまさに圧巻だった。スラヴの音楽は同氏の最も得意とするところだが、この夜は特に最高の賛辞を呈して惜しまない。第1楽章のピアノの雄大な和弦、続く詩情にみちた旋律と情熱的なリズム。第2楽章の幻想的な美しさ、第3楽章の律動的クライマックスに思い切った演奏は、さすがに氏の音楽的卓見と技術を示すものであった。若々しい情熱と成熟を奇妙に混淆した絶妙な境地をあますところなく展開していた。特に緩徐楽章は、てん綿たる詩情に高い気品を感じた。老来盛ん、いよいよ核心に迫るかの様なクロイツァー教授の芸術的努力に対しては頭の下る思いであった。」演奏会記念に国立音大で行われたパーティに於けるクロイツァーの挨拶―「私は20年間あなたがたにカミナリを落しつづけたが、今後は優しい雨となって日本音楽界に美しい花々を咲かせたい。」又記念演奏に際し1951年に、「日本楽壇は20年間に大きな飛躍を遂げたが、20年前はまだ揺籃期にあった。その後戦争という悲しい試練を克服して今日再び全面的な隆盛を見るに至ったのであるが、その間私は身をもって指導の任にも当り、力添えもしてきたのである。私の信ずるところでは、芸術とは常に人生そのものの再現である。しかしそれは芸術家の魂に映じたものの再現であって、実在のそれではない。そして芸術家は自分の人生観的解釈と創作芸術家のそれとを結合させようと努力する。これこそが個性的な芸術であり、心的なアルバイトであって、これが色々に批評もされるのである。しかし芸術家として全的な認知を得るためには、私もその全体として評価されねばならないから、聴衆の要請するところに従い十分の用意と同感をもって大作曲家の世界に没頭し、聴衆とともに生きてゆきたい。その中にこそ私の大きな報いがあると信ずる。」(1951年4月30日読売新聞より)
 その他に属啓成、小宮豊隆、近衛秀麿、牛山充、有馬大五郎、伊藤義雄等諸氏の賛辞もあるが、ここでは省略する。

クロイツァー教授の業績 -----


                         碑文 photo:寺井 徹

 芸大に設置されたクロイツァーのレリーフに、肩書として、ピアニスト、音楽学者、指揮者、とあるが、上記のお話の中にも音楽学者としての思想の一片を見ることが出来る。著書としては1948年に大化書房から「装飾音、モーツアルトからシューマンに至る」が、又1950年に大化書房から「或る音楽家の美学的告白」が出版された。 その姉妹篇と言うべき「芸術としてのピアノ演奏」が1969年に音楽之友社から出版され、有馬大五郎氏の「先生の遺産」と題するはし書きがあり、豊子夫人のあと書きには、「Das Klavierspiel als Kunst」の全訳であり、ドイツ時代の著書「正しいピアノ・ペダルDas normale Klavierpedal」(1915ライプツィッヒ、ブライトコプフ・ヘルテル社と「ピアノ・テクニックの本質Das Wesen der Klavierstechnik(1923ベルリン・ヘッセ社、及びショパンピアノ全集の校訂(Ullstein版)などと本書の内容から考えてみると1915年から1931年位までの、ある時期に書かれたものと想像される、とある。具体的に譜例も多く研究者にとっては貴重なものであったのに、現在絶版となっているのは残念なことである。又古くは1936年に笈田光吉氏がレオニード・クロイツァー口述として「ピアノ演奏法講義」を芸術社から出版されたが、これも絶版である。 ウルシュタイン社のショパン全集は、全欧州で最も信頼できるショパン全集と喧伝されたものであったので、日本では1949年に龍吟社からショパン没後100周年として出版され、1972年からは音楽之友社で順次出版されており、バラード、ワルツ、即興曲などは17版となっている。これらは原典版ではないが解釈本として音楽教育関係者の間で重要な楽譜となっている。即ちペダルの記入などはショパンの時代から楽器の構造が改良変化されている為に、現在ではショパンの記入は参考に留めるだけのものとなっていることでもあり、クロイツァーのフレーズやアーティキュレーション、その他の表現上の記入は、それらの記載法の真意を理解することのできる演奏者にとっては貴重な研究材料となっている。 クロイツァーは1948年頃からは国立音楽大学も兼任され公開講座で実技指導をされた(その御縁もあって、現在同校図書館で、教授の遺品を保管して下さってあるので、どなたでも見せて頂くことができる)。 クロイツァーのコンサートは日本中に及び、月に何回も開催された。地方旅行の折は、重い無音鍵盤とタキシードの入った大きなバッグを持たれて、当時の列車に乗られる御姿はお気の毒でもあったが、行く先々の聴衆の歓喜が何よりの慰めとなっていたのであろう。
 N響、関響、東響、東フィル等のソリストとして数多くのピアノ協奏曲を紹介された功績も、その演奏記録に見られるが、戦後はN響の指揮者としてしばしば、日比谷公会堂のステージに立たれた。ピアノ協奏曲の指揮と同時演奏も勿論行われたが、交響曲ではベートーヴェンの「第九」に至るまで、独特な情熱的な音楽に依り、一味違う感興を湧き起されたものであった。

御逝去による我が楽界の痛手 -----

 それらの大活躍の最中の突然の訃報に楽壇全体が心から哀悼の意を表し、盛大な葬儀が行われた。東京芸術大学学長上野直昭葬儀委員長の挨拶、文部大臣、日本放送協会会長、東京芸大音楽学部長、武蔵野音大学長、国立音大学長他、楽壇代表近衛秀麿、堀内敬三、副委員長高折宮次の挨拶があった。牛山充氏の挨拶「クロイツァー教授の功績」の中に、「教授は単なる指先の技術の伝達者ではなくピアノ演奏技法の本質を明らかにし、その背後に、またその根底に横たわる原理の美学的性質に、門下の心眼を開かせた得難い真の芸術家的ペダゴーグであった―中略―レシェティツキーピアニズムの直系を日本に伝え、格に入って格に拘束されず、神仙遊戯の妙趣を発揮し、天空海濶の風格を帯びていた。―中略―シューマンの『カーナヴァル』龍吟社、『ベートーヴェンの四大奏鳴曲』等永く我楽界を稗益する功績も忘るべからざるものである」とある。
 告別音楽葬委員には当時の楽壇・文化人の全員に近いとも言える190人が名を列ねている。
 逝去の翌日には、山本豊市教授によりデスマスクが製作され、それは現在国立音大図書館の遺品の中に納められており、又一個はベルリン・ホッホシューレへ朝比奈隆氏が持参され、現在も保管されている。

想い出 -----

 厳しいレッスンを終えた後の慈父の如く優しい眼差し、ジョークを好みユーモアを忘れず、香りの良い葉巻きを絶えず燻らせ、ボーイソプラノの様な高い声で旋律を歌い、時に透視術をお持ちかと思える程、人の心を大切にされ、清廉潔白、数千曲もの暗譜を頭の中に持たれた希有の芸術家に暫くでも接することのできた日本は、その恩恵を大切に思わなくてはならない。戦後ベルリン国立音大から復職を要請されたが、日本を愛する気持の為にそれを断られた。
 クロイツァー教授が幼少時代に密接に接触した人として、師のグラズノフの他にリムスキー=コルサコフや、スクリアビンがあり、モスクワではスクリアビンのシンフォニーを全部指揮したとのこと。マックス・レーガーやカザルスとも親しく、ニキシュ、ピアティゴルスキー、シュナーベル、メンゲルベルク、フルトヴェングラー等の他に当時のえらい哲学者とは特に親しく、多くの哲学者や哲学書から得たものが多いとの事である。レパートリーとしてはベートーヴェン、ショパンの他にシューマン、リスト、ブラームスが主で、ラフマニノフ、チャイコフスキー、ムソルグスキー、ドビュッシー、ラヴエルまではよく好んで演奏された。今思うと、その内容的な精神面からの感動を与えられたことは勿論であるが、何と言ってもその音の立派さ・美しさが印象的であった。
 太めの指、幅広い掌、豊かな体格から生れた自然なメトードにより、深く、重厚で、まろやかな音が、常に生き生きと音楽を語りかけていた。表現方法からは、一言で言うならばスラヴ的人種特有の情熱を感ずるが、作品の持つ音楽の本質的な伝統を伝える点に於ては、全く正統的な物を我々に残して下さったと信じられる。時代の推移と共に新らしい作品が生まれれば音楽も幾分変化するであろうが、現在純正に価値のあるものとして残されている作品を演奏するには、正しい様式感による伝統を研究し、それを守った上で、各演奏者の個性を発揮する、ということが残された者の使命であるかと思える。
 今クロイツァー教授は千葉県松戸の八柱霊園に静かに眠って居られる。御命日の10月30日に当り、種々の想いを込めて、これらの言葉を捧げたいと思う。

      2003年10月
クロイツァー記念会会長 中山 靖子


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